マインドフル イン・ザ・ダーク 心に太陽を昇らせる~Chapter.3 『目を閉じているからこそ気づく』

アイデンティティが解体される時

小笠原:社会的な顔とか、属性とか、自分についている名札みたいなのと、人って一体化しやすいじゃないですか。わたしも外で生活していたら、かっこいい男の人に自然に目が行きますが(笑)。

ボディーワークをやっているときって、触れた瞬間にその人のアイデンティティというものは解体されているんですよね。ただ身体からやって来ている動きを見ているだけ、という感じになるから。足元とか身体を触れて、顔のところにいったときに、そういえばこの人は男性だったんだとか、この人だったんだと、びっくりすることがあります。触れられているほうも、触れられてその、属性を超えた自分に意識を向けられることによって、自分が自分と思っている自分からちょっとずらした、グラデーションの中でもいつもと違ったところに行くんじゃないかと思います。顕在意識でそういう意識はたぶんしていないと思うけれど。単に身体の機能構造が調整されるだけじゃなくて、なんか新しい感覚ですねっておっしゃるクライアントの方は多いですが、それはその新しいグラデーションの感覚なのかなと

葦江:見てるけど見てない感じというのは、特にクラニオセイクラル(※)はそうだし、自分で何かをやるときでも、たぶんぜんぜんよくわからないけど、とにかく気持ちがいいという感想って、なんか暗闇で、見ているんだけど見えていないというのと、ちょっと近いかなと。

(※クラニオセイクラル:頭蓋仙骨療法。脳脊髄液の流れを改善する手技療法。)

小笠原:そうですね。どこにも絞ってない。そのひとから拾う情報のチャンネルを意図的に絞ってなくて、やって来ているものを拾い上げるという感じ。

目の見えない世界に興味を持ったきっかけになった『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本の中で好きな話がいくつかあるですが、その中にこういう話があるんです。見えてない人がカップを持っていた。陶器のカップなんだけど、マグカップの取手がないみたいなちょっと変わった形状で、その人は「グラス」を持っていると最初は思っていたと。でも、見えている人に「これって珍しい形のマグですよね」と言われた瞬間に、手の中でその「グラス」が「陶器」になった、という話なんですね。

その話を読んだときに、量子力学の観測者効果みたいだと思いました。わたしは物理をやってたから。量子力学の世界では、あらゆるものの状態というものは確定していなくて、全部の確率が雲のように存在していて、観測した瞬間に確率が絞られる、状態が確定するんですよ。石井さんが今、右にいるかもしれない、左にいるかもしれない、上にいるかもしれない、後ろにいるかもしれないという、確率の分布がもやのようにあって、その確率があるところには、石井さんが同時に存在している状態というのが、量子力学の扱っている現実です。観測という光が当たった瞬間に現象が確定するんですよ。石井さんは目の前にいる、という状態が確定する。(※波動関数の収束、といいます)

見たものが世界になる

石井:なんかそれを聞いて、腑に落ちたことがあって。昨年の秋に、金沢21世紀美術館で10日間、ダイアログ・イン・ザ・ダークを開催をしたんですね。僕は出張で行ったんですが、見えなくなってから初めて暗闇に入ったんです。そうしたら、もう暗闇にいるはずなのに、自分の身体が動いているのが見えたんです。でも、周りの話を聞いていると、やっぱり真っ暗闇の空間にいて。真っ暗闇だから当然見えていないはずなんですけど、自分の中では見えている。そのビジュアルが頭の中にばっと浮かんで出てくるんです。これはたぶん、僕の頭が見えると思った、認知したということなのかもな、と。

小笠原:それとなんで今の話が繋がるのか、わからなかった。

石井:例えば目の前のコップが、それはガラスのはずなのだけれど、何かをきっかけとして陶器だと自分が認識した時点で、目の前にあるものは陶器に変わるという話ですよね。認識した時点で、捉え方が確定するというか。

小笠原:そう、確定されてしまう。量子の世界みたいに、実はいろんな情報が同時に混在して重ね合わせ状態になってるんだけど、見て認識したと思うものに関しては、その状態を確定しちゃうんだなって。例えばこの人が、かっこいい人、そうじゃない人以外に、いっぱいの情報が同時に重ね合っているんだけど、見えるというチャンネルはすごく強いので、見たものがその人の状態として確定しちゃうというか、世界の状態として確定しちゃうんだなという感じが。だから、暗闇になったときに、その制限がなくなって、見えていることによる確定状態を逃れているというか、すごく立体的にとらえられる感じがしたんです。ボディーワークをやっているときも似た感じなんですよね。この人の見えている社会的なアイデンティティの確定状態を逃れているような。もっと立体的な重ね合わせの、チャンネルを絞られないで全部を見られているという感覚がします。

鮫島:そのリアリティは、慣れていくとまた失われるんですか? 今日はわたしも一緒に入らせていただいて、暗闇体験は新鮮だったけど、それが日常になっていくということは、それにもまた慣れていくのかな?

石井:慣れていく部分もありますし、僕の場合は、マインドフルでいることを実践をしているので。24時間すべてそういう状態でいられるわけではないんですけど、靴を履いたよとか、白杖を持っているこの手の感覚とか、呼吸に意識を向けるとか、意識してか無意識かやっているので。これって視覚があったら、外の情報に意識が向きがちだから、難しくなると思うんです。それが僕はないぶん、耳、誰かの会話だったり、自分の身体の感覚を意識する。そっちに意識を向けるのがデフォルトになってきてるのかもしれないですね。

葦江:さきほど和葉さんが言った「内側すべてに自分がいるという感覚」は、そこが開いてしまったら、前の世界にはけっして戻れない感覚の一つだと思います。認知科学では内部表現と呼んだり、スピリチュアルな世界ではマインドフルと呼んだり。内部感覚の気づきはある種の悟りのようなもので、その身体感覚はは失われなることなく、喜びを持って深めていくものだと思います。

わたしがよく訓練でやっているのは、内部感覚と外部感覚の切り替えです。視覚であれば、中心視野と周辺視野を一定間隔で切り替えする。外部を見る目、内部を見る目、それがブレンドする接点を作る。何になるのかというと、よくわからないのですが、日常レベルでは、外部環境に動じにくくなりますね。

和葉さんはヨガで「わたしがいた」という感覚を得て、外からの評価と自己評価との同一化が外れていったのですよね。石井さんは、目が不自由かどうかという外からの評価が、ある日がらっと変わってしまった。でもご自身の中ではマインドフルで生きているから、自己評価は変わってない。

石井:不思議なことに、僕のことを見えていた時から知っている友だちは、見えていないことを忘れるって言うんです。そういえばそう、見えていなかったね、みたいな。昔から知っている人に関しては、僕に対する評価はあまり変わってなくて。見えないという、一般的にはとてもマイナスな状態になったけど、軽さを保っているよねって。

小笠原:Uさん(※共通の知人)は、前はもっとトゲトゲしかったから、今のほうがいい感じって言ってましたよ(笑)。

石井:昔は視覚ですごいジャッジメントしてたんですよ。俺は正しい、お前は間違っている、みたいな。だから人の気持ちを受け取るのが、昔はすごい下手だったんです。けど、みんなこんなに良くしてくれる、心配してくれてサポートしてくれて、昔だったら「いいよいいよ」と遠慮したりすこし疎ましく思っていたのが、視覚を失ってから、素直に「ありがとう」って受け取れるようになって、すごい楽になったんですよね。

あと、見えない世界の人たちからすると、僕はちょっと変わり種みたいなんです。すぐに外に出てきちゃったりとか、見えなくなって1年でふらっと東京に出てくるみたいなのは、あまり聞かないよというのは、何人かから言われます。

小笠原:やっぱり瞑想とかボディーワークをやっていて、感覚という「よすが」をある程度、バリエーションの中に持っていたというのは、けっこう大きいことなんじゃないですか?

「次のステージだよ」って見えない世界に入れられた

石井:すこしスピリチュアルな話になりますけど、すべて準備ができた段階で見えなくなって、強制的に次のステージだよって見えない世界に入れられたのかなと思うこともあるんです。見えなくなったときって、何もできなくなったという絶望感がまずあったんですね。そこからひとつずつ、できることを拾い集めていったんですけど。

そのとき、見えていたころにダイアログ・イン・ザ・ダークで、暗闇の中でハーブを植え替える、そのポットを持って帰るということをした体験を思い出して。植物をすごい好きで育てていて、退院したのも5月末で、ちょうど植え替えのタイミングで、やらないとダメだと思って。ほとんど見えていない状況だったんですが、ダイアログでやったから大丈夫だと思って、植え替えをしたんです。「できることあるじゃん!」って。あと何ができるんだろうって。次は洗濯物。洋服屋だったから、それこそ見なくても畳める。これ、できる。そしてボディーワーク、クラニオセイクラルって視覚を使わないじゃないですか。逆にクラニオやっているときって、それでも目で入ってくるジャッジメントとか、エゴが入るんですよ。呼吸が深くなった、よしよし、とか。

小笠原:その、生まれてしまうジャッジをいかに回避するかという技能、みたいな感じですよね。

石井:それがなくなったから、本当に感じているだけ。あとは誘導瞑想、ガイドメディテーションも、表現しやすくなったというか。すべてそういうのがセットされた段階で見えなくなった。

小笠原:暗闇の中でメディテーションをガイドしていただいた時、感覚を感じるということへのガイドにものすごい安心感を感じました。石井さん自身の感覚の盤石さと言うか、太さみたいなもの。

石井:ありがとうございます。秋に神宮外苑のホテル内にオープンするダイアログ・イン・ザ・ダークは、そんな人の内側の感覚に意識を向けた、禅やマインドフルネスのの要素を含んだ暗闇になる予定です。

葦江:見えなくても感じる、目を閉じているからこそ気づく内部感覚が開きにくいという方も、施術ではよくいらっしゃいます。その人の思い込み、トランスの世界が深すぎて。「頭で考えるな、感じろ」という言葉が先行して、それを義務感のようにとらえている方もいます。わたし自身、目で運動評価、呼吸評価していることも多いので、石井さんのお話には一瞬ドキッとしました。感覚をつかみたい人のために、何かアドバイスやヒントはありますか?

石井:やっぱりジャッジメントしない、なのかな。机を見たときに、この机ちょっと値段高そうだなとか、重そうだなとか、いろいろなことを頭で考えると思うんですけど。指先だけに意識を向けると、この机って「ここ」にしかないじゃないですか。そうすると、そういうジャッジメントはあまりなくなってくるのかな。

鮫島:そうなると、ジャッジメントに使っていたエネルギーって、ものすごい膨大なエネルギーだと思うんですけど、それが自分にどんなふうに戻ってくるんだろう。すごく元気になるのかとか、疲弊しないのかとか、どんな感じなのかな?

石井:楽しいとかうれしいとか、そっちの感覚。動物、犬とかに近いのかな?

小笠原:石井さんが犬に見えてきた(笑)。

石井健介


1979年生まれ セラピスト
アパレル業界を経て、エコロジカルでサステナブルな仕事へとシフト。2012年よりクラニアルセイクラルとマインドフルネス瞑想を取り入れたThe Calmというオリジナルセラピーを始める。同時進行してフリーランスの企画・営業・広報として働き始める。
2016年の4月のある朝、目を覚ますと突然視力が失われていた、という衝撃的な体験をしたが、日々をマインドフルにいき、生来の風のような性格も相まって周囲が驚くくらいあっけらかんと過ごしている。

葦江祝里(あしえ・のり)
ホリスティック・ウェブ代表
米国IBA認定ボディートーク上級施術士
Adv.CBP

「わたしは言葉を書く人間ではなく、コトバの表現形式としての人体であろう」と、人間探求の旅に漕ぎ出した。

学生時代より東洋と西洋の融合に興味を持ち続け、歴史、宗教、神話、中国語を学んだ。その後、出版とIT業の実績、自身の病気回復の経験を生かし、2014年、セラピストに転身。心と体、生活環境、対人関係、仕事や表現など、幅広い領域からのボディートーク療法を提供している。2016年はホリスティク・ウェブの名義で各種ワークショップを開催。
施術のかたわら、オイリュトミーシューレ天使館に在学中。
生体のあらゆるリズムと循環、その知恵を秘めた言霊学に魅せられ、今後の舞台表現、戯曲表現の核とすべく模索している。

鮫島未央

米国IBA認定ボディートーク施術士

「人にとって本当の幸福とはなにか?」という疑問が物心ついた時からあり、心理・哲学・人智学・精神世界・ボディーワークなどあらゆる分野を学んできました。それでも「うまくいく人とそうでない人」が生まれてしまう不全感をどこかに感じていましたが、ボディートークに出会い、その効果を自分自身で体感し「ここにすべてがある!やっと出会た!」と感じました。自然に心身を回復し、本来のその人そのものを輝かせてくれるボディートークを、一人でも多くの方に届けたいと思う日々です。プライベートでは二児の母。好きな食べ物は生ハムと牡蠣。
http://samejimamio.com