マインドフル イン・ザ・ダーク 心に太陽を昇らせる~Chapter.5 『対等な遭遇。そして評価のない世界へ』

見える・見えない関係なく、ただその人に向き合う

小笠原:一言ずつ、これは言いたいということはありますか? 見えないということに対して、わたしたちが持っているレッテルとか、過剰に配慮しすぎて膠着していることとか、いっぱいあると思うんですけど、リアリティをぜひ伝えたいという気持ちってあるんじゃないかなと思って。

石井:ちょうどさっき、グラデーションという言葉が出たんですけど、「見えない」にもすごいグラデーションがあって。僕は今、ぼんやりと見えていて、一人でまあまあ動き回れる。全盲の人でも慣れている場所は何不自由なく動けることもあるし、そうでないこともある。人によってどういうサポートや声掛けが必要かというのは、ぜんぜん違うんですよね。あの人は視覚障害者だ、じゃあ腕をとって移動させよう、それに抵抗がある視覚障害者もいたりする。だから、見える・見えない関係なく、その人に向き合うこと、対人間。暗闇の中で見える・見えない関係なく向き合ったときのように、対等。助けが必要だったら、助けるし、暗闇の中だったら、アテンドのほうが助けられるし。それこそジャッジメントをしてしまうと、見失ってしまうところがすごくあるので。

人として向き合えば、よく言われているダイバーシティとか、インクルージョンとか、全部が包括された社会になるんじゃないかなと。すべてはジャッジメントするから起こる気がしていて、例えば人種が違うとか、宗教が違うというだけで、中身は一緒なのに。視点を常にふたつ持つというか。違うよねというのが、お互いに理解できれば。俺が正しいんだ、いやいや俺が正しいんだじゃなくて、違うのを認めて、それを尊重してどういうふうに生活していけるのかなと。

知らない人に手を「がっ」とやられると嫌じゃないですか。何も言われずにやられたら。わりと僕らって、電車に乗るときとか、無言の優しさで手を引いてくれたりするんですけど、やっぱり知らない人に手を掴まれるというのは、見えていても見えていなくても、怖いものは怖いですよね。

葦江:これはボディーワークの側から発信できますよね。触れる前に必ず触れますよとか言うのはルールだから。

石井:そこの境界線をしっかりして。踏み込むときは、声をかける。

葦江:単純に聞くことですよね。

小笠原:見えている人にとっては、見えてない人という属性がものすごく際立って見えてしまうから、見えていないのが不自由でなんとかしなければいけないと、その思考がセットで出てきちゃうんですよね。

前に石井さんが、歩きスマホとか本当に危ないからやめてほしいと書かれていて。それは、見えない人にとって危険があるからだと、わたしは認識してたんだけど、こっちが杖を持っていて怪我させてしまう。その人に怪我をさせてしまうのが嫌なんだというのを書いているのを見た時に、ああ、そういう気持ちを配慮したことはなかったなと反省したんですよね。不自由さに困っているというチャンネルからその人をサポートしようとしていて、怪我をさせてしまうことに対する嫌な気持ちを配慮したことがなかったなと気づいて。

石井:ある広告で、視覚障害者の二人にひとりが接触事故に遭っています。歩きスマホはやめましょう。その危険は見えていますか? というものがあったんです。それを聞いたときに、すごく違和感があったんですよね。ぼく、元々、最初は自分が障害者になるなんて、手帳を持つなんて嫌だ、白杖を持つなんて嫌だ、という時期があったんですけど、白杖を持たずに外に出たときに、周りから見ると、ぼくは見えているようにしか見えないので、歩いているとぶつかるわけですよ。すいませんといっても、向こうは「なんだよ」という感覚になったりとか。これって、自分が白杖を持たないことで、自分の安全も確保できないし、周りにいる人の安全も確保できないんだというのに気づいて、白杖を持とうと思ったんですね。

点字ブロックの上を歩いていて怪我させちゃうリスクは結構高い

石井:東京駅とか歩いていると、縦横無尽にみなさん歩いている。スマホを見ながら。点字ブロックの上を白杖を持って歩いていたとしても、急ぎ足の人は気づかない。あるとき、ぼくの白杖に足を引っ掛けて転倒した方がいるんです。そのときって、いろいろ聞いていると、ぼくが白杖を持っていて、僕の白杖に躓いて相手が転んだ場合でも、相手の前方不注意になるみたいなんですね。僕らは道路交通法で、白杖を携帯しなければいけないと定められている。だから免責になるらしいんです。それも、嫌じゃないですか。自分が歩いているせいで、誰かに怪我させるのって。

僕の場合は、ちょっと見えるから、引くこともできるんですけど、突然こられると引けないので。怪我を負わせてしまう、転んでしまう。実際に体験して、ものすごい申し訳ない気持ちになったんですけど、あきらかに相手は歩きスマホをしてたよねって。だから、あなたにとっても危ないんですよって。相手が視覚障害者でなくても、中学生か高校生が見ていてホームから転落して、電車にひかれて亡くなった事故とかもあって。そういうこともあり得るので。

小笠原:石井さんと乗り換えの東京駅を歩いたことがあるんですけど、自分でも無意識だったけど、あのボコボコを手がかりに、あそこを選んで歩いている人ってけっこういるんですよ。あるいは、自分もそうだと気づいたんだけど、あのブロックに沿って歩く。わざわざ上を歩かなくても、無意識にあの点字ブロックの外のエッジのとこを沿って歩く人って多いのね。だから点字ブロックの上を歩いていて怪我させちゃうリスクは結構高いかも知れないと思います。

石井:これもあるあるなんでけど、車いすで歩いていて子どもが回りにいると、お母さんが「危ない」って手を引くんですよ。それは配慮をして道を譲ってくれてるんですけど、きっと子どもにとって「危ない」は、あなたが危ないなのか、あの人が危ないのか、わかならないと思うんです。認識として、白杖を持っている人が危ないとか、車いすの人が危ないとか、インプットされてしまったら、ちょっと怖いよねという。僕らは危ない存在でもないけど、そういうふとした言葉によって危ない存在なってしまいうるのかと。どうしたらいいのかなと思って。

ブラインドジョークをいっぱい出しているのも、白杖を持っているとデリケートな人に見られることもあるので、だからこの白杖を徹底的にネタにしてもいいなと。そういう人もいるんだよというのを、自分の知っている人に投げて。メッセージがときどき来て、石井君がそういうのを発信してくれているから、街で視覚障害者を見かけたときに、どうやって声をかけていいかわかったよとか。いつもだったら声をかけられなかったけど、声をかけられたよというのが、ときどきもらうんですよ。それは役に立ってよかったなと思いますね。

小笠原:関わる機会がないことによる不用意な怖れみたいなのは、けっこうありますからね。混ざって一緒に何かできる、ダイアログ・イン・ザ・ダークって、あらためてすごいなと思います。

「感覚」「感じること」を開く暗闇という場所

石井:ダイアログ・イン・ザ・ダークの発案者であるアンドレアス・ハイネッケは、東欧の哲学者マルティン・ブーバーの格言「学ぶための唯一の方法は、遭遇することである」、これがダイアログの哲学であると話すんです。

そしてその遭遇は、対等でなくてはならないと唱えています。そこからダイアログ・イン・ザ・ダークは生まれたのですが、僕は五感とか身体感覚という部分でも、暗闇の中ってすごい可能性があるなと思ったので、みなさんに入っていただきたかったんです。

小笠原:体感覚が欲しいという人ってすごくいっぱいいます。それが顕在意識化されている欲求でないにしても、マインドフルネスのブームってそこを埋めるものだという直感的な予感があるんじゃないかなと思うんです。ビジネスパーソン向けの”マインドフルネスでリーダーシップなんたら”みたいなのに行くと必ず出てくるのって、本読んでいいなと思って半年くらいやってるんですけど、自分がやっているマインドフルネスが「うまくいっているかどうかがわからない」という質問、必ず出るんです。

マインドフルネスにうまく行ってる行ってないがあるのかはともかく(笑)、その質問が出る背景に「感じる」ということが開かれていない、という状態があるんだと思います。ビジネス界でブームになっているマインドフルネスって、生産性が上がるとか集中力が高まるとか、何かの「成果」が指標になっています。プロトコルのようにマインドフルネスのプログラムをこなしたらご褒美が得られるんだと思っていると、外部にしか指標がないんですよね、マインドフルネスが「うまく」出来ているかどうかの。

でもマインドフルネスのギフトってもっと感覚的で質的な領域、つまり自分がどういう「感じ」がしているかでしか測れないものだと思うんです。外の世界から客観的に評価できないから、内部のチャンネルでしか評価できないのだけれど、感じること自体が閉ざされていたら、もしかしてマインドフルな状態というのがやってきていたとしても、そこを気付いて評価するというチャンネルが開かれていないと変化に気づくことさえ出来ないという。それに自分の感覚、みたいな曖昧なもので何かをはかっていくってとても心もとないことですしね。むしろ、間違っているからこうしなさいと言われたほうが楽、という感じはとても良くわかるんだけれど。でもやっぱり感じるしかゴールはなくて。人から見てうまくいってますよといわれて価値があるものではないから。

だから逆にマインドフルネスブームで、「感覚」「感じること」に人々が結びついていくって、ものすごいことだと思うわけですね。これこそ意識の変容であって。ボディーワークで臨床をやっていても、「感じる」というチャンネルに価値を与えていないばかりにうまくいってないことって、世の中にたくさんあると感じているので、その感覚を開いていくことに、こういう場所(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)ってすごく価値があるなあ!と改めて感じました。企業研修でやる意味がわかりました(笑)。入る前はへぇって思っていましたけど、その価値がわかった!

鮫島:入る前と入ったあとでは、ぜんぜん違う。思っていた体験とは違いますよね。

石井:ダイアログは企業研修向けのプログラムもあるんですが、その場合、ひとつのものを、お互いコンセンサスを取りながら、達成するというミッションが出てくるわけですよね。意思決定のプロセスや情報共有の難しさ、甘さが、視覚を閉ざしただけで非常に顕在化する。

小笠原:それはそれでまったく違う体験になる気がしますよね。刻々と開いてくるチャンネルが変わるだろうし、その中でどういう言葉を交わしているか、それこそガラスが陶器になる瞬間みたいな、一個の言葉による刺激によって、感じることがガラッと変わるという体験が。またぜひ経験させていただきたいと思います!

自分が感じていることを、間違っているかも知れなくても大事にする

小笠原:今日同行いただいたカメラマンさん(Magellanスタッフ)、何か言いたいことあります?

Magellanスタッフ:最近、習っていることと共通点があっておもしろかったです。あるヒーリングスクールに行ってるんですけど、評価をまず外すというところが、共通していて。

鮫島:わたしは熱望してますよ、ジャッジメントのない世界を(笑)!

葦江:ちなみにさっき、石井さんにジャッジメントしている膨大なエネルギーを、何に変わりましたかといったら、すごくいい言葉がいっぱい出てきたじゃないですか。犬のように喜ぶとか。みなさんはどうですか?

小笠原:わたしはジャッジしてるもの(笑)! ジャッジのエネルギーが少ないかどうかはわからないけど、その感覚という、まるで評価のしようのないもの、自分にとって気持ちよければそれが自分にとってのリアリティで真実だと、その感覚に価値を与えて、その声をすくい取ってあげること。不快だったら不快、それも自分にとっての真実、自分が何を感じているか、という感覚の世界は外側からの評価に比べてぜんぜんくっきりてなくてぼんやりしたものなんだけれど、それを大事にできるようになったというのはボディーワークという世界に入ってきたことの一番の恩恵かなと思います。

葦江:自分の感性を信じるみたいな感じ?

小笠原:信じるというのももしかしたら少し違うかな? 間違うこともあるから。自分が感じていることを、間違っているかも知れなくても大事にする態度??

葦江:いいか悪いかというのではなく、価値というところに変わる気はしますね。

Magellanスタッフ:今ちょっと思ったのは、ジャッジの前の段階で、認知というか、違いを五感で感じるじゃないですか。そこからジャッジが入るから。その違いはあっていいというのが、大前提にあると思うんです。みんな違って、こういう人もいるし、こういう考えの人もいるなというのがあって、評価がないところに行きたいので。ジャッジはどうしてもあると思うんです。それぞれ生きてきたなかで、いろんな癖のある人がいて、またいつもの癖が出ているねって。みんながその癖を自分も自覚するし、相手のいろんな人のタイプも自覚するし、また出てるねと笑いあえるような世界があるといいよねというのを、最近学んでいます。それが結果的に、違いはあっていろんなダメなところもあるけど、そこに評価のない世界に。ジャッジのマイナスの、自分の物差しで相手を測るのをなくせば。みんな違う物差しを持っていて、それぞれ違う価値観で生きているという。

石井:ジャッジメントの対義語として、共感。自分の内部評価とかも、自分でこんなわたしダメだとかではなくて、そうだよね、ここできないよね、悲しいよねって気持ちに共感する。ダメだ、じゃなくて、わたしはこれができなくて悲しいんだと、自分で共感していると、ダメなわたしではなくて、きちんと自分が思っている感情にちゃんと寄り添えるようになると思うんですよね。

それは相手も同じで、こうやって言っているけど、それは違うとかジャッジメントするのではなく、そうだよね、そう思うんだよねと共感を挟んで。じゃあなんでそう言ってるんだろうと、そっち側の視点から見てみると、確かにね、って。自分は納得はできないけど、その視点はわかるよって。そこの共感が生まれてくると、ジャッジメントがなくなってくるんじゃないかなというのが、NVCを勉強して実践していくなかで、なんとなくわかってきて。自分の子どもたちはそういうふうに接しているんですけど。

小笠原:ジャッジと共感って、共存・・できますよね? その人との関わりが多層になっていくというか。この人にはこういうニーズがあって、こういう個性で、この人はこれで好きで友達としてはいいけれど、ちょっと仕事では二度と組めないなという人もいるじゃないですか(笑)。いろんな層(レイヤー)で、その人と関われるみたいな。

鮫島:わたしは自分で自分をジャッジしているだけなんですよ。醜形恐怖から始まって、例えば、自分がどこに住んでいるか、何者なのかを名乗れないことも恥ずかしくて。だからいろんな肩書きをつけていくプロセスを経て、今はたぶん外していっていて。何もないなら「何もないです」って言えている。というか、「言うのが怖かったんだね」と、当時の自分に共感している感じですね。セルフジャッジメントで苦しかったねと、自分に共感していて。今は別に、主婦ですってふつうに言えますよね。主婦でもないけど(笑)。

葦江:そのエネルギーを何に使ったのという質問がすごくおもしろかったので。

鮫島:相当エネルギーを使ってますよね。身体が重いんじゃないかなと。だから軽くなっているんじゃないかなと思っていて。印象的にすごい軽いから、石井さん。ジャッジメントがない人は軽くなるのかなと。

Magellanスタッフ:ジャッジすると自分も傷つきますからね。それがないのはいい。

小笠原:自分にも同じ基準でジャッジしている。もっと聞きたいんですけど、それは見える見えないという糸口ではなかったですけどね。いやほんとに、暗闇から感覚の世界のはなしから随分と広い領域の話まで広がりました。それだけインスパイアされるものがたくさんあった体験だったということだと思います。
あのハッピー感はすごかった。人生のジョイランキングでベスト3くらいに入るくらいのハピネスだった。正式リリースされたあとの、フルバージョンも、ぜひみんなで一緒に経験したいですね。何が誘発されるかというのは、同じ人によっても時期によって違うと思うので、ぜひダイアログ・イン・ザ・ダークを経験してください! みなさま本日はありがとうございました。

石井健介


1979年生まれ セラピスト
アパレル業界を経て、エコロジカルでサステナブルな仕事へとシフト。2012年よりクラニアルセイクラルとマインドフルネス瞑想を取り入れたThe Calmというオリジナルセラピーを始める。同時進行してフリーランスの企画・営業・広報として働き始める。
2016年の4月のある朝、目を覚ますと突然視力が失われていた、という衝撃的な体験をしたが、日々をマインドフルにいき、生来の風のような性格も相まって周囲が驚くくらいあっけらかんと過ごしている。

葦江祝里(あしえ・のり)
ホリスティック・ウェブ代表
米国IBA認定ボディートーク上級施術士
Adv.CBP

「わたしは言葉を書く人間ではなく、コトバの表現形式としての人体であろう」と、人間探求の旅に漕ぎ出した。

学生時代より東洋と西洋の融合に興味を持ち続け、歴史、宗教、神話、中国語を学んだ。その後、出版とIT業の実績、自身の病気回復の経験を生かし、2014年、セラピストに転身。心と体、生活環境、対人関係、仕事や表現など、幅広い領域からのボディートーク療法を提供している。2016年はホリスティク・ウェブの名義で各種ワークショップを開催。
施術のかたわら、オイリュトミーシューレ天使館に在学中。
生体のあらゆるリズムと循環、その知恵を秘めた言霊学に魅せられ、今後の舞台表現、戯曲表現の核とすべく模索している。

鮫島未央

米国IBA認定ボディートーク施術士

「人にとって本当の幸福とはなにか?」という疑問が物心ついた時からあり、心理・哲学・人智学・精神世界・ボディーワークなどあらゆる分野を学んできました。それでも「うまくいく人とそうでない人」が生まれてしまう不全感をどこかに感じていましたが、ボディートークに出会い、その効果を自分自身で体感し「ここにすべてがある!やっと出会た!」と感じました。自然に心身を回復し、本来のその人そのものを輝かせてくれるボディートークを、一人でも多くの方に届けたいと思う日々です。プライベートでは二児の母。好きな食べ物は生ハムと牡蠣。
http://samejimamio.com